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2009/9/8 ◆特攻作戦の崩壊 ◇ The Kamikaze :全軍特攻化と一億総特攻 (4)
◆特攻作戦の崩壊 ◇ The Kamikaze :全軍特攻化と一億総特攻 (4)
<特攻に関する統計>
『米国戦略爆撃報告 太平洋戦争方面の作戦』に よれば、沖縄戦における米軍の艦船撃沈 は36隻、損傷368隻。航空機喪失合計は763機、内訳は戦闘による損失458機、作戦に伴う事故などの損失 305機である。他方、日本軍の航空機喪失合計は 7,830機、内訳は戦闘による損失4,155機、作戦に伴う損失2,655機、地上撃破1,020機に及んでいる。 The Naval Technical Board
特攻機の隊員は、本来は自らの命と引き換えで、敵正規空母を轟沈したかった。しかし、米海軍空母任務部隊は、中心の正規空母2隻,軽空母2隻を、巡洋艦4隻、外側を駆逐艦16隻で護衛する輪陣形を組んでいる。中心部の空母に辿り着くまでには、熾烈な対空砲火を浴びた。 特攻機が撃沈した正規空母,軽空母,戦艦,巡洋艦は1隻すらもない。
特 攻隊員とそれを送り出した指揮官たちの問題とも関連するが,日本軍は、攻撃目標の選定について、軍事科学的な検討を十分にせず、戦術的にも誤った「正規空 母」という目標を第一優先した。これも、特攻作戦を失敗させる=特攻という大きな犠牲に見合った戦果をあげられなかった大きな要因であろう。 8. 1945年3月には、日本軍は沖縄戦で持久戦を戦い、本土決戦の準備時間を稼ごうとし「全軍特攻化」「一億総特攻」を進めていた。特攻専用の片道攻撃機キ 115「剣」も開発,量産された。にもかかわらず,特攻は第一線将兵の発意で実施されたとする「特攻自然発生説」が,1932年の第一次上海事変での日本 陸軍「爆弾三勇士」賛美から流布されていた。 1941年12月7日,真珠湾への特殊潜航艇による「特別攻撃」も, 部下の志願による犠牲的精神の発露であったとする見解が流布された。1944年10月の神風特攻隊の神話と全く同じく、軍が命じたのではなく、やむを得ざ る状況で、部下が自発的に特攻を申し出て、上層部がその熱意にほだされて、特攻を認めた---。こういうありえない理由で、真珠湾への特攻が説明されてい る。現在でも「特攻隊自然発生説」が流布されているが,これは1941年末の日米開戦当初から,あるいは1932年第一次上海事変における「爆弾三勇士」以来,軍の方針となった。
1932年2月22日,第一次上海事変での日本陸軍「爆弾三勇士」の行動も,犠牲的精神の発露であるとされ,三軍神と称えられていた。
1932年2月27日に『大阪朝日』社説「日本精神の極致—三勇士の忠烈」
長崎県出身の北川丞一等兵,佐賀県出身の江下武次一等兵、長崎県出身の作江伊之助一等兵という『爆弾三勇士』絶讃の声は,荒木貞夫陸相、鳩山一郎文相、薄田泣董の言葉にも現れているという。歌人与謝野鉄幹は、1932年に朝日新聞の募集に応じて「爆弾三勇士」の歌を作詞し,入選している。 猪口力平・中島正(初版1952)『神風特攻隊』は,特攻隊指揮官の著作として名高いが,そこでは着任した関行男大尉が,即日特攻任務を引 き受けたこと,特攻隊に全員が志願したことが述べられている。第一線の将兵たちは,祖国に殉じる覚悟ができていた純真な若者であるとの前提で,特攻隊員の 生への執着,家族への心残りなど苦悩を捨象してしいる。特攻は自発的な犠牲的精神の発露であるという「特攻自然発生説」を暗に主張し,指揮官たちも純真な 若者たちに感激し,特攻を命ずる者と特攻を命じられる者に、気持ちのズレが無く,一体化したとする。特攻の叙事詩は,祖国愛に殉じる勇士の活躍を謳い,特 攻を命じた司令官の責任には触れない。
楢本神社の神風特攻隊「敷島隊」隊長関行男大尉慰霊碑文は、大本営参謀だった源田実中佐の手になるが、次のように特攻作戦を記している。 大本営陸軍部作戦課参謀瀬島龍三中 佐は,1911年12月9日富山県小矢部市生まれ,1932年陸軍士官学校、1938年陸軍大学を首席で卒業。1939年1月から11月まで,第四師団参 謀,第五軍(軍司令官土居原賢二中将)参謀として満州で活躍した。その後、1939年11月に陸軍参謀本部の部員(大本営陸軍部幕僚付)に栄転し,太平洋 戦争初期の大作戦を成功裡に指導した。1944年10月、台湾沖航空戦も指導したが,そのとき,過大な戦果報告修正の打電があったにもかかわらず、それを 上層部に伝えることをしなかったという。そのため、誤報に基づいて、日本陸軍はレイテ決戦を発案し、ルソン島から兵員、物資を抽出し、特攻作戦を展開す る。
大本営陸軍部作戦課参謀瀬島龍三中佐は,1945年2月25日付で連合艦隊参謀兼務となり、2月末、連合艦隊司令部(日吉、現慶大)に着任し、豊田副武長官、草鹿龍之介参謀長などに申告した。戦艦「大和」による沖縄海上特攻を立案した先任参謀の神重徳海軍大佐とも旧知の間柄という。 自伝(1995)『幾山河−瀬島龍三 回顧録』p.167では、連合艦隊の戦力低下を指摘した後、次のように特攻の自然発生説を主張している。
「しかし、帝国海軍伝統の士気は極めて旺盛であった。3月17日からの九州/沖縄航空戦、次いで3月25日の慶良間列島への米軍上陸、4月1日の沖縄本島への米軍上陸などにおいて水上特攻、空中特攻(菊水)、人間魚雷(回天)、人間爆弾(桜花)など各艦隊、各部隊、第一線の将兵が自らの発意で敵に体当たりし、国に殉ずる尊い姿には、襟を正し、感涙を禁じ得ないものがあった。」 入江相政侍従長からの伝聞を記した『田中清玄自伝』1933年は、昭和天皇の言葉として、で台湾沖海戦の誤報上聞を訂正しなかった瀬島龍三参謀について次のように述べた。 「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵たちを咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」 大本営参謀瀬島龍三中佐は、戦後,シベリア抑留から帰国後,伊藤忠商事に入社、戦後賠償に関わる援助ビジネスに関与し、伊藤忠会長にまで昇りつめた。退社 後,中曽根首相の臨時教育審議会委員や臨時行政改革推進審議会会長も引き受けた。「特攻は自然発生的なもの」で,特攻作戦に関する上官の責任など,一切あ りえないというのが彼の特攻隊認識であった。(戦死した特攻隊員の総数には,沖縄への戦艦「大和」以下の海上特攻での戦死者も加えている。)
「特攻自然発生説」には、次のような疑問が沸く。
しかし,日本海軍は,1944年中に人間爆弾「桜花」,人間魚雷「回天」,特攻艇「震洋」を開発し,陸軍も特攻艇「マルレ」を配備した。そして,1945年になって陸軍は,特攻専用の航空機キ-115「剣(つるぎ)」を試作,量産した。
1945年1月20日「特殊攻撃機」キ-115「剣」の試作命令,1号機は1945年2月末頃完成。使い捨て機は、搭乗員も使い捨てにしてしまったであろう。
⇒◆人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」自爆艇「震洋」「マルレ」を読む。
人間魚雷「回天」「海龍」、人間爆弾「桜花」、特攻艇「震洋」「マルレ艇」、特攻専用機キ-115「剣」のような特攻兵器は,軍が設計、製造し、部 隊編成をしている。特攻が自然発生的なものではなく、軍の積極的な関与の下に、組織的に進められた「作戦」であることは明らかである。 ⇒◆特殊潜航艇「甲標的」「海龍」特殊攻撃機「剣」を読む。 9.最後特攻として,第五航空艦隊司令長官宇垣纏(まとめ)中将の命令で玉音放送後に出撃した特攻隊があった。これは,特攻作戦の責任をとった潔い行動ではあるが、中津留達雄大尉以下11機22名もの部下を道連れにした「私兵特攻」ともいえる。 中津留大尉(兵71)は,レイテ戦の関行男大尉と同期である。 最高位の軍官の戦後の特攻をした宇垣纏中将は,日本の敗戦を知りながら,敗戦を伝えられていない若者を特攻の道連れにした。この私兵特攻は、若者に高貴な将軍との殉死の機会を与え,戦後の国民に誇りをもたせるための行為だったのか。
特攻を命じている最中、部下に「後に続く」として「散る桜残る桜も散る桜」を実践した将官はほとんどいない。終戦後に日本再建に尽くすという名目、大元帥 の命令を最も尊ぶとしても、多数の若者を死に追いやった、死なせてしまう作戦しか実行できなかった責任は残る。宇垣中将は潔く責任を取ったが、これは自分 の戦争責任を自覚していたからであろう。 戦 の最中に平常心を保てば、死ぬことが受け入れられるかもしれないが、平和な時、逃げる時の平常心は、命を惜しむ気持ちである。終戦を冷静に考えれば、とて も自決できなくなる。そんな時、特攻死した将官が宇垣中将である。残された書からは、力強い司令官の平常心がうかがわれる。
10.日本軍は,本土決戦に当たっては全軍特攻化して,来襲する敵艦隊,輸送船,上
陸部隊を迎撃するつもりでいた。特攻には,それを実行する兵士が必要不可欠である。犠牲的精神を発揮して,祖国,国体の護持,家族を守るために,命を投げ
出す若者が求められた。そして,彼らの犠牲を前提とした非道な作戦が立てられた。このような状況は、現在の自爆テロにも共通している。 特攻には,犠牲的精神を発揮して,命を投げ出す若者が求められた。 兵士は、祖国への忠誠,家族愛を貫こうとして,自分の死を納得させようと悩み,苦しんだ。このような心情とは裏腹に,特攻兵器は計画的に開発,量産され た。兵器にあわせて作戦を進めれば,特攻隊員個人の自由や選択の余地は、命もろとも押しつぶされる。特攻兵器の開発,量産は,祖国愛や家族愛を持っている 人間を,血液の詰まった皮袋として扱う状況に落としいれた。 特攻隊の心情を理解し、それに共感できる日本人は、特攻隊を「自爆テロリスト」と同一視することはできない、したくない。しかし、静かな笑顔で、愛機と 共に堂々粛々出撃し、突入散華できた特攻隊員があれば,同じことをする人々が現在いても不思議ではない。攻撃対象が一般市民であるとか,戦争中の行為では ないとかは,「攻撃成果」という軍事的観点からは問題ではなくなってしまう。 <自爆テロと特攻を再考する> 自爆テロの語は,日本で広く使用されるが,自殺テロSuicide Terror,自殺攻撃Suicide Attack,自爆Suicide Bombingといった英訳が当てられる。これらは,善悪の価値観をも含んだ言葉であるが本webページでは,煩雑さを避けるために,慣用となった「自爆テロ」という語句を使用する。 日本軍の特攻作戦を、特攻隊員の心情から当時の戦局,軍の組織などから、総合的に考える必要があるのと同様、本来は自爆テロについても同様に,敵の側を分析することが求められる。 自 爆テロ(Suicide Terror)とは、自らの命を犠牲にした爆破行為,すなわち自爆によって,物理的,心理的,社会的恐怖心を引き起こし,所与の目的を達成しようとするこ ういであり,目的とは,戦果をあげること,政治的主張,家族を守ること,祖国を防衛すること,民族自立を図ることなど,さまざまである。いずれにせよ,自 己の生命をもって,他人の生命・財産・平和人権を破壊する行為である。しかし,攻撃者からみれば,その行為は,悪のテロではなく,純粋な防衛あるいは攻撃 であり,愛国心,殉教,新世界の形成,伝統の維持,宗教的使命,家族愛など積極的な意味を持っているのかもしれない。
日本軍の将兵について、連合国の市民や将兵は、「日本人は天皇を守るためには死をも厭わない狂信者である」「日本人は死ぬ まで戦い続ける好戦的な侍の精神を持っている」「日本人は捕虜・敵国民間人など敗者を情け容赦なく処刑する」と認識していた。それを引き継いで,世界の多 数の人々に,日本の特攻隊は,自爆テロ/殉教と同じように認識されているようだ。つまり,狂信的な天皇への忠誠心があり,国体護持のためには自らの生命も 犠牲にしても惜しくはない。天皇陛下万歳といって体当たり自爆すると。 日本人への先入観、偏見は、日本の特攻に対しても、強烈な敵愾心を生み出した。「正義と民主主義を守る戦争」を遂行する連 合国にとって、攻撃・反抗という破壊的行為を行ういう日本人は「テロリスト」と判断される。判断しなくてはならない。特攻隊は自爆テロリスト集団・自爆テ ロとみなされてしまい,殲滅の対象となってしまう。
What was needed for America to dominate much of humanity and the world's resources, it said, was "some catastrophic and catalysing event - like a new Pearl Harbor". The attacks of 11 September 2001 provided the "new Pearl Harbor", described as "the opportunity of ages". テロ攻撃を知っていて見逃したという大統領陰謀説とあいまって,「9.11同時多発テロは,第二の真珠湾攻撃である」と現在の日本の同盟国指導者・アメリカ大統領は公言している。(→A New Pearl Harbor,George W Bush said what America needed was "a new Pearl Harbor",A Second Pearl Harbor?, The Bush administration and September 11)
◆War Okinawa and Us:New York Sun Editorial;April 27, 2007 We perked up because Mr. Morgenthau is an old salt himself, having had a destroyer torpedoed out from under him and sunk in the Mediterranean and then, in the Pacific, had another destroyer torpedoed, but not sunk, and later, when he was still on it, hit by a Kamikaze plane. "There were 1,900 kamikaze pilots that attacked us at Okinawa," he said. He said he didn't want to belittle the significance of the suicide attacks that our side has been taking in Iraq. But neither did he want to forget the scale of the suicide bombers in World War II — not only their scale but their fanaticism. ----The Japanese had a string of successes after Pearl Harbor but, as Wikipedia puts it, they were "checked" at the Coral Sea in May of 1942, "defeated" in June at Midway, and "lost their momentum at Guadalcanal." Our planes outnumbered and outclassed them, particularly the Hellcat and the F4U Corsair. It was sometime after the battle of the Philippine Sea, where the Japanese lost more than 400 carrier-based aircraft and pilots, that Vice Admiral Onishi decided to form the Kamikaze Special Attack Force composed of suicide bombers. Mr. Morgenthau wired us some excerpts from Ronald H. Spector's book "At War At Sea: Sailors and Naval Combat in the Twentieth Century," in which the scale of these attacks is sketched. The Japanese, Mr. Spector reports, had expended about 1,900 suicide planes at Okinawa alone, sinking 57 of our warships and damaging more than 100 so extensively as to take them out of the war for extended periods. Another 300 ships had some damage. It's illuminating perspective. Mr. Spector's report puts at 5,000 the number of our sailors killed, with another 5,000 wounded, in the Okinawa campaign. They were the heaviest losses of any naval campaign of the war, he notes, and about 30% greater than those at Pearl Harbor. Mr. Spector quotes a postwar analysis as showing that at Okinawa, an astounding 32% of all kamikazes that were able to leave their bases succeeded in hitting one of our vessels, which was what Mr. Spector called seven to 10 times the success rate of conventional sorties. He then offers this paragraph: "It is ironic that the last and greatest naval encounter of World War II should have become not a contest of technology but a contest of wills. Admiral Onishi and other Japanese leaders believed that Allied fighting men would be shocked and disheartened by the Kamikazes' determination and disdain for death. Americans were shocked and fearful of the new weapon, but they were not discouraged. One ship followed another on the radar picket stations. The Allies never considered abandoning their conquest of Okinawa or their plans for the subsequent invasion of Japan." What we take to be Mr. Morgenthau's message in bringing all this to our attention is be not afraid. The current war is not the first in which we have been met with a wave of the most barbaric kind of suicide attacks. The current attacks being launched against us by our Islamist foes are greater than the kamikazes in neither scale nor barbarity, save for the fact that the Islamist enemy has so often aimed not only at uniformed military personnel but at women and children. The Japanese were every bit as extremist and crazed as the suicide bombers of today seem to us. Yet we eventually fought off and defeated the suicide bombers of World War II. And even, we don't mind pointing out, went on to have a peaceful and productive relationship with a democratic Japan, while Americans came to enjoy sushi and haiku and Toyotas and the Sony Playstation. ニューヨーク・サン2007年4月27日「沖縄と我々」では、イラク戦の自爆攻撃を沖縄戦の日本軍の特攻にたとえ、再び撃 退しようと訴えた。ニューヨーク郡検事ロバート・モーゲンソー氏が「沖縄で1900機のカミカゼが猛攻した」「特攻によって米国の艦船57隻が沈められ、 100隻以上が戦闘不能、300隻以上が損傷」「米海軍兵の死者、負傷者はそれぞれ5000人に上った」と過大な評価を紹介した。そして、「特攻機の命中 率は32%、米国側の被害規模は真珠湾攻撃より30%大きい」と実際以上の戦果を挙げたように述べた。そして、神経戦を挑んだ大西中将たちを撃退し、「日 本人がイラクの自爆攻撃よりも熱狂的だったが、最終的に勝利を収め、民主化後の日本と同盟関係を結んで寿司、俳句、トヨタの自動車、ソニープレイステー ションを楽しんでいる」と結んだ。 NewsDaily2007年04月30日(http://www.usfl.com/Daily/News/07/04 /0430_016.asp?id=53395)参照。 ◆自爆テロと,特攻および真珠湾攻撃と同じであるという含意には,①予期しえない卑劣な対米攻撃,奇襲攻撃とみなし、②攻撃を狂信的テロと同一視し,攻撃者を狂信的な,理解しがたいテロリストとみなす点がある。
特攻=究極の天皇崇拝の狂信・軍国主義がもたらした自殺攻撃・自爆テロ(米軍の視点) 当事者の片方の立場から分析すれば,特攻も自爆テロも善悪の価値観や正当性の観念から,対極的に論じられてしまう。これが現状である。愛国心や敵愾心をむき出しにすれば,当事者双方とも傷つけあう結果に陥ってしまう。 ◆祖国,民族のためであれば,テロも許されるのか。民族自立,国家独立,反植民地,暴政打倒,民主主義の確立,家族の保護,財産の保全,国防のためであれ ば,市民を含む敵の命を奪う大量殺戮,軍事目標・経済基盤の大量破壊は,正当化されるのか。総力戦が開始されて以降,軍事目標と民間人は区別すべきだとい う思想は,プロパガンダとしてしか意味をもたなくなった。「軍事目標だから戦闘行為だ」「民間人も殺した犯罪行為だ」という正当化や非難は,戦術・戦略の 専門家たちは内心では信じていないはずだ。 祖国防衛の英雄,独立の闘志,レジスタンス,ゲリラは英雄・立派な人物として,その敵殺害,敵財産の破壊も賞賛されるべきなのか。 自爆テロと特攻の問題は,結局,戦争の本質である大量殺戮,大量破壊を肯定し,正当化できる大義があるのか,という問題に行き着く。
自爆テロと日本の特攻の異なる点として、 特攻について、世界ではさまざまに解釈されるのと
同じく、日本人が現代の自爆攻撃を理解するのは難しい。自爆攻撃した「敵」の文化、言語、歴史、国際関係、現在の生活を的確に把握できていないからであ
る。自爆攻撃をテロと呼んでいるが、テロが怨念の一時で行われたという解釈には疑問の余地がある。「自爆の巻き添えにされる善良な市民」という理解は、他
者にとっては異なるかもしれない。現代のテロについて、「怨念を晴らすための非道な行動である」「民族を救おうとする考えはない」と、断定できるだけの判
断材料は持ち合わせていない。 民間人も、食糧生産、兵器生産、補給、労働力として戦争に協力しており、無差別攻撃は軍事的にも、効果的で ある。また、敵愾心とは狂信的な一時的なものでなく、冷徹な論理一貫した怨念である。しかし、その発するところは、家族を殺害されれ、民族を迫害されたも のの経験かもしれない。 敵に対して、怨念がないのに特攻をするのであれば、家族・民族を守るために特攻するということであり、自分を特攻、納得させる出撃させる崇高な大儀なのかも知れない。 2002年5月20日に開催されたカミカゼ特攻の生存者の会Kamikaze Reunion では「大戦中のカミカゼ生き残り歓迎。悲哀・勇気・名誉」とある。駆逐艦「スーブリック」USS Shubrick は1945年5月29日0013に沖縄方面で特攻機の命中を受け損傷したが、生き残った乗員たちの特攻作戦と特攻隊員への感情は複雑である。 「テロとの戦い」は決して短期でも決戦でもない。長期間、経済社会基盤(生産、流通、金融、輸送、エネル ギー、水供給)を巻き込み、世論を誘導して戦われる総力戦である。総力戦では,一般市民も世論の支持による戦争継続,ビジネス,納税・国債購入による軍資 金提供,労働力,個人消費節約による軍需への資源の移転など,戦争協力している。こうなればみんなが戦争協力者であり「無辜の市民」はありえない。 総力戦にあっては攻撃目標が、軍艦か輸送船か、兵士か民間人かは、問題とされない。敵の戦力,経済力,世論,生産基盤、金融、通貨の信用力などに、効果的な打撃を与えられるかどうかが、攻撃目標選定の基準となる。
総力戦であれば,軍艦乗員であっても,軍需生産,補給物資の運搬を担う労働者であっても,重要な戦力として,攻撃対象となる。自分の命をかけて,祖国,家 族を守るために,敵に打撃を与える必要があり,攻撃目標は,航空母艦など敵艦艇,輸送船,あるいは金融センター・国防省など敵経済・軍事中枢などである。 効果的な攻撃目標の選定が重要となり,民間人が含まれるかどうかは問題ではない。排水量2万7000トン,速力33ノット,搭載機80機のエセックス級航 空母艦は,エセックス,フランクリン,レキシントン ,バンカーヒルなど12隻が建造された。空母が何隻か撃沈されても,米軍は日本と講和するつもりはなかった。無条件降伏を求める方針は3年も前から決まっ ていて,世界に公言されていた。 一般市民がテロの標的にならないように,防御するのであれば,膨大なコストを負担しなくてはならない。テロとその恐怖は,市民を守ろうとする政府や軍隊 に,多大な負担をかける。敵に負担を強要するには,一般市民を標的にして,殺害するテロが効果的である。トラック,戦車はいくらでも生産できるし,軍艦の 代わりもあるが,殺された人間の代わりはいないという意味で,テロの被害は大きい。
軍艦,軍用機,軍人を攻撃しようとしても,防備が固く、警戒しているため、攻撃しても戦果を揚げるのは困難である。軍事施設,戦車に自爆テロを仕掛けても、多くは事前に発見,阻止されてしまう。
1944年後半の米軍に対する特攻も,空母や戦艦ではなく,大量殺戮を目的に、輸送艦、商船を攻撃するほうが,米国の負担も大きかったであろう。兵器の損害は回復できるが、失った兵士の命は取り戻せない。日本本土侵攻作戦に際しても,自国の若者の死傷者を如何に少なくするかが問題となっていた。
中には、特攻隊を使い捨てのごとく扱った厚顔無恥な司令官や参謀も若干いたようだが,自爆攻撃を計画し、特攻隊員を訓練し、特攻隊を編成する司令は,心中穏やかではいられないだろう。自分は死なないのに、若
者に死を前提に特攻を命じる司令官,高級将校の心のうちは苦しかったはずだ。だからこそ、特攻を命ずる指揮官は,自らの心理的負担を軽くするため、自らの
心理操作をする。心理的負担のかかる事実(=不協和)を受け入れるために認識を改める「認知的不協和の理論」である。これが「特攻自然発生説」を信じ込ん
でいる理由である。
他方,特攻隊・テロ実行犯として指名されたり、志願を強要されたりした若者は、運命を受け入れて、祖国、民族、家族、神の栄光のためと思って、死ぬことを自分に納得させる以外の道はない。 北アフリカや南米で郵便飛行の仕事をし,大戦中,偵察機パイロットとして地中海で活躍したアントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリ Antoine Marie Roger de Saint-Exuperyは,1943
年の『星の王子様Le Petit Prince』で有名なフランスの作家であるが, “War is not an adventure. It
is a disease. It is like
typhus.”「---戦争はチフスのようなもの」とも述べている。1944年7月31日戦死した彼の部屋には,General
X宛ての手紙が残されていた。 特攻やテロ行為は,戦争と同じく正当化することはできない。もし,特攻や自爆テロを,そして戦争が正当化できる大義があるのであれば,無防備な市民を効果的な攻撃目標として認めることになる。特攻,自爆テロ,戦争を許せば,平和は遠のいてしまう。 しかし,最も非難され、追及されるべき人物は、特攻隊員・自爆者ではないし,特攻隊員・自爆者の抱く犠牲的精神、祖国愛、殉教精神ではないであろう。 ◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただきますれば幸いに存じます。よろしくご協力をお願い申し上げます。 ◆当サイトへのご訪問ありがとうございます。2006年2月13日以来, ◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。 ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。 連絡先: torikai@torikai@tokai-u.jp 〒259-1292 神奈川県平塚市北金目1117 東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博 TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,1117 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292 Fax: 0463-50-2078 Thank
you for visiting our web site. The online information includes research
papers, over 1200 photos and posters published by government agencies
and other organizations. The users, who transcribed thses materials
from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to
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by Torikai Yukihiro, who is web archive maintainer. 鳥飼 行博 研究室 還有其他一些太平洋戰爭的相關研究,有興趣又上得去的人可以訪問: http://www.geocities.jp/torikai007/war/war-index.html ◆特攻作戦の崩壊 ◇ The Kamikaze :全軍特攻化と一億総特攻 (3)◆特攻作戦の崩壊 ◇ The Kamikaze :全軍特攻化と一億総特攻 (3) 写真(左):1945年5月27日に鹿児島県万世基地を出撃した陸軍特攻第72振武隊; 鹿児島県萬世飛行場から旧式低速中古の九七戦9機の特攻隊として出撃した荒木幸雄(17歳2ヶ月)たち。米駆逐艦「ブレイン」を撃破し(乗員を殺し)たの は彼らかもしれない。こう考えると,戦争の本質は,殺戮に命を掛け合うことなのかと思えてくる。それとも,かれらの国家や家族への愛情の前で,米国の若者 の人生など考えてはならないのか。 現在の万世(現在の加治町)飛行場から,1945年5月27日に特攻した少年兵荒木幸雄仔 犬を抱いた特攻少年兵」として,有名である。屈託のない幼さの残る笑顔が印象的で,体当たり攻撃を命じられた若者とは思えない。特攻隊員は、祖国,家族を 愛する純真な若者である。しかし、命を狙われる米軍から見れば特攻機を操縦し,体当たりしてくる「自爆テロリスト」なのか。それとも,現在頻発している 「自殺攻撃」を行う若者たちが,テロリストではないのか。また、若者の特攻隊員はいるが、将官はもちろん、佐官クラスの高級将校の特攻隊員はいない。なぜ 高級将校たちは、特攻に誰一人志願しなかったのか。 1945年5月27日の特攻出撃
1945年5月26/27日(日曜)沖縄方面の米軍損傷艦船
1945年5月27日(日曜)沖縄方面で特攻の被害を受けた駆逐艦「ブレイン」の戦闘経過OKINAWA;“A Fiery Sunday Morning”引用翻訳 駆逐艦「ブレイン」は最大戦速で航行した。特攻機が,甲板真上に現れた。It sheered off a wing on the No. 1 gun and crashed into the No. 2 Handling Room, which exploded and killed the men on that gun. 前方40mm対空機銃の乗員たちは,殺されるか,海に投げ出された。駆逐艦「ブレイン」に突入した特攻機はThe 1発の550ポンド爆弾を抱えていたが, すぐには爆発せず,士官室を通り抜けて,戦闘情報センターCombat Information Centerで破裂した。
Within seconds the fourth plane close on the tail of the first, approached the BRAINE sharp on the starboard bow. It sheered one of its wings on the starboard boat davit and crashed in flames into the deck amidships, and buried itself into the sick bay and supply office. The bombs it was carrying exploded in the uptakes of the No. 2 stack, blowing the stack and the fighter directors into the sea. 艦 橋との連絡は全く取れなくなった。延焼を制御することはできなくなった。Their fury was fed by the spilled gasoline and they ignited the shells and ammunition of all four 40mm clipping rooms. The torpedoes were torn loose from their mountings.(→OKINAWA;“A Fiery Sunday Morning”引用翻訳) もしも特攻隊は,自発的に志願者が現れ、その志願者から特攻隊が編成されたという「特攻自然発生説」が妥当するのであれば、なぜ将軍・大臣・皇族はもちろん、佐官クラスの中堅士官が、特攻を志願しなかったのかを説明する必要がある。 高級将校が、航空機を操縦できないのであれば,予備学生と同じく100時間の速成訓練を受けて練習機で突っ込めた。複座以上の特攻機では、電信機を降ろ して、後方見張りのためにか、偵察員を乗せていた。操縦するパイロットではなくとも、同乗者として、特攻機に乗り込むことは、経験の浅い将兵にも可能だっ た。航法・通信すらできなくとも、将軍・大臣・皇族、佐官クラスの士官でも、特攻出撃できた。自ら志願すれば、誰でも特攻、戦死できたのである。海軍大 学,陸軍大学卒業者の多くは,将官にまで昇進できたから,予備役を含め,将官クラスの特攻出撃は,決して荒唐無稽ではなかった。 しかし、特 攻で戦死した佐官以上の士官は、神雷部隊「桜花」隊の野中五郎少佐(二・二六事件首謀者の実弟)一名程度である。野中少佐は、人間爆弾「桜花」を運ぶ一式 陸上攻撃機に搭乗していた。つまり、結果として,志願によるか、上級指揮官からの命令によるかは問わず,航空特攻隊員は、若い最下級将校および下士官・兵 からのみ編成され、多くが未熟練な搭乗員であった。 陸軍第三独立飛行隊の久野正信少佐(29歳)は,数少ない佐官特攻ともいわれる。死後中佐に一階級昇進した。 尉官最上階級の大尉は,海軍では分隊長相当で、学徒を充当した少尉中尉と予科練出身の下士官が,特攻隊の中核となった。航空機を操縦できる将官はまずいな い。佐官クラスでも航空機操縦は限られた人物しかできなかった。したがって,特攻パイロットに,佐官以上の上級将校がほとんどいないのは,一見当然のよう にも思える。また,航空戦を熟知している,航空機の操縦もできる源田実参謀のような有能な士官は、貴重な存在である。彼らが,自ら最前線で戦うことも,特 攻に出ることもありえないと考えられる。結果として,未熟な学徒出身の下級将校,彼らに率いられた予科練出身の兵士が,特攻の主力を担うことになった。こ う考えると,特攻を志願しなかった軍上層部の将官や佐官以上の高級将校を,むやみに批判することはできない。軍人でも自決,自殺など容易にできることでは ない。 事実上、佐官クラス以上の士官で、特攻隊に自ら志願した将校は、日本陸海軍にはほとんどいない。「俺 も最後の一機で特攻する」といっていた高級将校,将軍は、そのまま,戦後復興に尽くすことを新たに任務とした。関行男大尉と兵学校同期生中津留達雄大尉の 「彗星」に乗って出撃した宇垣纏中将は,降伏を知っている以上,特攻による戦果の目的ではなく,特攻自決だった。大西瀧治郎中将は,割腹自殺した。しか し,特攻指揮官のほとんどは,戦後も生き残った。中には,有能さを発揮して、政界,財界で大活躍した陸海軍の参謀もあった。
軍上層部は、特攻とは、愛国の情を示す方法が特攻以外にない未熟練な末端の将兵が行うべきことと冷静に考えた。軍事技術/戦術・戦略に通じた一級の軍人
は、体当たり自爆という1回の任務で命を軽軽しく無駄にすべきではない。生き続けて、経験をつみ、よりよい作戦を計画、準備、実行する義務がある。死ぬよ
りも生きることのほうがぬ難しい。 死ねなかった軍上層部の将官や佐官以上の高級将校にも,戦後,ひそかに慰霊したり,謹慎して過ごした人たちもいる。自決,自殺など容易にできることではな い。指揮官,司令官が終戦に際して自決しないからといって非難することはできない。しかし,特攻隊を編成した軍人が,参議院議員,大会社の幹部、政治顧問 に就任し,威風堂々としていたら面食らう。「特攻隊自然発生説」を流布した彼らの軍人精神、愛国心、信義,そして特攻隊員や犠牲家族への思いはどうなった のか。 「自発的に体当たり攻撃を始めた」と軍上層部司令官・参謀たちが唱えるのは,特攻隊員の名誉と自己犠牲の精神に共感するためだけではない。軍上層部の要職 にあった自分たちが,特攻しか有効な作戦を提供できないという,戦術的・戦略的な無力さ(無能さ)を認めないからである。特攻を作戦として採用した責任を も回避している。
1945年5月27/28日(月曜)沖縄方面の米軍損傷艦船 特攻により損傷には、撃墜された期待の破片が降ってきたものもあり、すべてが特攻機に突入されたわけではない。 米 軍も,ジャップのひどい攻撃を受けた,こんな苦しい状況を乗り切ったと,被害を(戦果も)過大に報告していると思われる。特攻で,精神的にまいって戦闘に 耐えられなくなったとして,生き残ろうとした将兵もいたのかもしれない。彼らの言動だけを根拠に,特攻が米兵を恐怖に陥れたとするのは危険である。
1945年5月28日駆逐艦「ドレクルラー」の撃沈経緯United States Military Surface Ships: DD 741 (DREXLER)引用
菊水八号作戦・第九次航空総攻撃(5月28日〜5月30日)
「白菊」特攻隊を報じる徳島新聞では,次のように記述されている。 「白菊特別攻撃隊員を命ずる」。1945年4月上旬、日本海軍徳島航空隊司令が搭乗員250人に告げた。海軍少尉だった田尻正人さん(82)もその中にいた。 1945年5月23日、白菊60機は松茂を離れ、前線基地の鹿児島県串良町へ。出発前、わら半紙に書き残した言葉は「感激 皇恩広大 祈 聖壽萬歳皇国 繁栄」(皇恩の広大に感激し、聖寿の万歳と皇国の繁栄を祈る)。同24日夜、第一次攻撃として同僚機14機が(串良を)出撃。エンジン不良で引き返した り、不時着したりした機を除き、9機18人が南海に消えた。
そして、終戦。---玉音放送を聞いた。雑音が多く、意味がよく分からなかったが、司令が「無条件降伏だ」と説明した。----「搭乗員は皆殺しにされる」とのうわさが流れ、隊員は基地を後にして散り散りに。列車を乗り継いで家にたどり着いた。戦死したと思っていた息子を見た父母の喜びように、初めて「生きていてよかった」と実感した。(引用終わり)
1945年5月28日の海軍特攻出撃
1945年5月28日の陸軍特攻出撃
1945年5月28/29日(水曜)沖縄方面の米艦船の被害
*下記の戦闘経過報告からも窺われるように,特攻機の出撃と戦果(被害)を照合するのは,困難である。その理由は次のとおり。
駆逐艦「スーブリック」SHUBRICK (DD-639)乗員の日記:Personal War Diary of George T. Morley
May 29, 1945; 0005 甲板部署
May 30, 1945 0230 Went to sleep
菊水九号作戦・第十次航空総攻撃(6月1日〜6月11日)
1945年6月3日(菊水9号作戦)の特攻出撃 1945年6月5日(火曜)沖縄方面の米艦艇は台風により甚大な損害を被った。
1945年6月6日の特攻出撃。
菊水十号作戦・第十一次航空総攻撃(6月15日〜6月22日) 6月21日の特攻出撃
水上機をつかった特攻部隊でも,機体の重量を軽くし,250kg爆弾を搭載するために,基地との通信を行う電信機は原則降ろしてしまう。しかし,各隊の1
番機(指揮官機)には,電信機を搭載している。ただし、ト連送(突撃せよという電報、これがとぎれれば撃墜されたか自爆したかである)はたったの1回しか
受けていないという。
1945年5月24日の白菊特攻隊;練習機「白菊」20機出撃のうち、戦死した搭乗員39名戦死。戦死者は、海軍兵学校出身者1名、予備学生出身者・予科練出身者35名(うち、17歳4名、16歳1名)。
日本軍で特攻隊に選ばれた搭乗員の特徴は次の3点である。
軍上層部は、特攻隊の人選について、次のように冷徹に考えたようだ。 こ のように,戦術的に見て特攻を継続的な全面作戦とすることは,総合戦力の低下を招くことは,有能な軍人たちも理解していた。しかし,未熟な搭乗員を旧式な 中古機で特攻させるのであれば,有能な軍人たち,優秀な兵器が温存でき,総合戦力の維持が可能である。このように邪推すれば,やはり,特攻は冷徹な軍事作 戦なのか。
6月22日の特攻出撃(菊水10号作戦) 1945年7月29日の特攻出撃は次の通り。 特攻出撃一覧神風特別攻撃隊 戦史
1945年7月28日(土曜)沖縄方面の米軍損傷艦船
九三式中間練習機(K5Y)は,340馬力という低出力エンジンを装備した110ノット(200km)の低速複葉機で,機体も布張りであった が,1933-1945年に5,770機も生産されており,操縦もやさしかったために,特攻機として使用された。中間練習機としては,目立つオレンジ色に 塗られたが,特攻に際しては濃緑色に迷彩された。 旧式低速練習機の特攻に,特攻隊員は不満をもっていたが、軍の攻撃命令に逆らって,性能の良い特攻機を用意して欲しいとは誰も言うことができなかった。旧式練習機による特攻は、軍の編成・命令によっているのであって,本人の志願ではないのであるから。 On 9 July 1945, CALLAGHAN took station on the embattled radar picket line, where on 28 July she drove off a biplane intent on suicide with well-directed fire, but the plane, skimming low and undetected, returned to strike CALLAGHAN on the starboard side. It exploded and one of the plane's bombs penetrated the after engine room. 艦は浸水し,搭載していた対空砲弾・弾薬が延焼,爆発していたために,僚艦は救助に近づくことができなかった。「キャラハン」は,1945年7月28日 0235に沈没し,47名が戦死。
中間練習機は,羽布張りで,金属製外板でなく,複葉低速であったが,低空をゆっくり飛ぶ練習機は,米軍のレーダー警戒網や戦闘機の哨戒を潜り抜けた。そし て,駆逐艦「キャラハン」に体当たり命中した。中古複葉機のほうが,レーダーや近接信管の威力を半減させ,特攻に成功しているのは,皮肉であるが,搭乗員 となった特攻隊員は,低性能機を割り当てた司令官に絶望的な気持ちだったであろう。 本来,爆弾等裁量は30キロに過ぎないが,特攻のときは250キロ爆弾を装備したようだ。航続距離は380-550マイルであるが,過重な爆弾装備では遥かに短かったであろう。 →引用菊水作戦発動および菊水作戦・航空総攻撃について
沖縄方面に夜間来襲する日本機に対して,米軍は,夜間戦闘機部隊を配備して迎撃した。夜間戦闘機は,陸上基地あるいは空母から発進した。安全に離着陸できる大滑走路のある嘉手納基地など沖縄の飛行場に多数の夜間戦闘機が配備された。 米 軍の主力夜間戦闘機は,グラマンF6F-N夜間戦闘機で,右翼にレーダーを装備していた。武装は,20mm機銃2門,12,7mm機銃4門。最高速度 590km。F6Fは,初飛行が1942年6月,1943年には部隊編成,実戦参加と急遽実用化された。総生産数1万2272機。1942年に初の海兵隊 夜間戦闘機部隊が編成された。このほか,F4U「コルセア」夜間戦闘機や高速大型の夜戦P-61「ブラック・ウィドウ」も配備された。 7.沖縄特攻では,航空機2000機,搭乗員3000名を失ったが,沖縄戦の命中率は10%程度であった。大半の特攻隊員は,戦果を挙げることなく死亡した。特攻機の戦果は,艦船・商船撃沈30隻,撃破80隻程度で,戦果に比して損害が大きすぎた。
菊水作戦の時期には、1900-2200機が特攻に出撃した。
零式艦上戦闘機 631機
U.S. Merchant Ships Participating in Pacific Theater Combat Operationsによれば、沖縄戦に参加した米国商船(民間船)は176隻で、レイテ戦に参加した商船108隻を上回り、太平洋戦争では最大の規模である。 米国の標準船「リバティー船」Liberty Dry Cargo Ship, EC2-5-C1 Type; 大戦中, "Oregonship" 造船所では リバティー船を合計322隻建造した。巡航速度10.5 knots,積載能力 10,800トンである。1943年, Oregon Shipbuilding Companyは新たに「ビクトリー船」 Victory class shipsを建造したが,これは,同じ積載能力で,より速い15 knotsの速力がでた。
沖縄戦において、日本軍は、航空機約1,900機(海軍1,000機、陸軍900機)とその搭乗員約3000名(海軍2,000名、陸軍1,000名)を特攻作戦に出動させた。 特攻による米国商船の被害一覧でも,フィリピン戦と沖縄戦の特攻で撃沈できた米国の商船は6隻で,撃沈を含め損傷を受けた商船は合計23隻。
英国軍の参加もあった沖縄攻略戦で、米軍は,駆逐艦16隻など艦船36隻を特攻,通常攻撃などで失い,368隻が損傷(大破50隻以上)を受けた。米海軍航空隊は,航空機 763機,水兵 4,900名を失い,水兵4,800名以上が負傷。
⇒沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資重量 特攻作戦では,空母,戦艦,巡洋艦を1隻も撃沈できなかった。特攻機による撃沈は,艦隊型駆逐艦12隻,護衛駆逐艦1隻,高速輸送艦(駆逐艦改 造)3隻であり,その他は戦車揚陸艦,上陸用舟艇,掃海艇,輸送船であった。特攻機の命中率は56%とする資料は、米軍の視野に入った特攻機のうち米艦船 に損傷を与えた比率である。特攻機は剛体でななく、砲弾や爆弾のような威力はなかった。 輸送艦「ネショーバ」USS Neshoba (APK-219)の乗員たちも 沖縄戦に参加した。「ネショーバ」は,満載排水量1万2000トンの輸送艦で,1944年11月に就役した。1945年3月に沖縄攻略作戦に参加した。日 本の特攻機が狙った艦船あるいは輸送船には,このような米国の若者たちが乗っている。特攻機命中とは,彼らの戦死に直結する。特攻隊員が命を捨てて撃沈破 しようとした「敵」艦艇に同じような若者が乗艦していたことを忘れることはできない。 特攻の威力を見ると,艦艇1隻に1機の特攻機が命中しても撃沈できることは少なく,たとえ複数の特攻機が命中しても撃沈できない場合も珍しくはない。特攻 機の命中がどれほどあったのかは,不明瞭であるが,仮に撃沈した艦船に2機が命中率,損傷した艦船に1機が命中あるいは至近突入とすると撃沈した艦艇に 56機命中,損傷させた艦艇に164機命中となる。そこで,日本の特攻機は沖縄戦に1900機が突入して合計216機命中したことになる。つまり,沖縄戦での特攻機の命中率は11%である。 2006年に発見された米軍の資料から「特攻機の命中率50%」という俗説は,目標に到達し米軍が目視で数えることのできた敵機のうち,艦船に被害を与えた特攻機が半数あったことを誇大解釈した誤りである。
他方,これらの航空機を「自爆体当たり」ではない特攻に使用していたらどうであろうか。たしかに,戦闘機や爆撃機の正規攻撃は,生還率が低いが,利点も多い。 第一に,通常攻撃では,出撃した搭乗員が,途中で攻撃をあきらめたり,攻撃後に無事生還できる確率は,「自爆体当たり」「自殺攻撃」よりも遥かに高まる。これによって,搭乗員の士気も高まる。 第二に,攻撃経験を積むことで,熟練した搭乗員が増える。これは,同じ航空機数ではあっても,攻撃力を高めることになる。自爆特攻が,攻撃力を急速に低下させるのは,航空機と並んで,搭乗員の熟練がまったく期待できないからである。 第三に,爆弾を投下することで,投下速度が速くなり,機体に拘束した同じ爆弾よりも遥かに大きな効果が期待できる。自爆機の燃料が引火するという効果はなくなるが,高速で落下する爆弾の威力は,目に見える速度で急降下する体当たり機よりも遥かに大きい。 第
四に,航空機は,反復使用に耐えることを前提に生産しているのであって,それを1回限りの体当たりで自爆させてしまうのは,資源の浪費であり,動員された
工場,労働者の努力を無駄にしてしまう。練成に時間と経費のかかる航空機搭乗員を複数回の攻撃につかせることで攻撃力を維持できる。 牛島中将は決別電文を送信した6月19日,「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し,最後まで敢闘し,悠久の大儀に生くべし」と命令を出し,23日未明,長勇参謀長と共に,摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決。これは,残存部隊に徹底抗戦を命じたものである。 ◆特攻作戦の崩壊 ◇ The Kamikaze :全軍特攻化と一億総特攻 (2)◆特攻作戦の崩壊 ◇ The Kamikaze :全軍特攻化と一億総特攻 (2) 日本陸軍航空隊の特攻隊は,鉾田陸軍飛行学校で 編成されている。この学校は、1940年12月に茨城県鹿島郡鉾田に設置された軽爆撃機,襲撃機の幹部養成と研究を行う航空学校である。1944年6月に は鉾田教導飛行師団に改称され、航空要員の養成と実戦指導に当たることになった。1945年7月には,教育活動を行うだけの要員も燃料も不足したために, 実戦部隊の第26飛行師団に改編された。
陸軍特攻隊「万朶隊」を率いたのは,鉾田飛行学校の教官岩本益臣(ますみ)大尉(1917-1944)である。彼は米軍が既に実施していた「跳飛爆撃」,すなわち超低空飛行で爆弾を海面に水切り反跳させ,敵艦船に命中させる艦船攻撃を,日本陸軍航空隊に導入しようと尽力していた。
陸軍特攻隊「万朶隊」隊長岩本益臣(ますみ)大尉(1917-1944)のプロフィールは次の通り。 1944年10月、捷一号作戦発動に伴い,岩本大尉以下24名は第四航空軍(軍司令官富永中将)の陸軍特攻隊「万朶(ばんだ)隊」として出動。鉾田教導飛 行師団では,鉄心隊、勤皇隊、皇魂隊、振武隊4隊、神鷲隊12隊など合計24の特攻隊が編成された。陸軍「万朶隊」は日本で最初に編成された特攻隊であ る。 日本軍初編成の陸軍特攻隊「万朶隊」は、出撃が1944年11月7日のフィリピン戦と,海軍の神風特攻隊に2週間遅れた上に,空母撃沈のような華々しい戦果に恵まれなかった。そこで,日本軍初編成の特攻隊「万朶隊」は黙殺された。陸軍は,1944年11月7日〜1945年1月13日までに,特攻突入148機,未帰還170機、自爆24機を出したともいう。 九九双軽による陸軍「万朶隊」は,日本軍の公式特攻隊第一号といえるが,戦果をあげることが
できなかった。海軍は,2週間前に空母撃沈の大戦果を上げ家イルからである。そこで,特攻編成第一号の「万朶隊」は,事実上,戦史からも黙殺されてしまっ
た。特攻=カミカゼ(本来は海軍の航空特攻)との認識が広まったのも,陸軍特攻がフィリピン戦で不振だったことに起因する。生き残った(戦闘経過を知って
いる)上級司令官は,特攻が大戦果をあげたと公言し,戦果のない特攻隊を黙殺する傾向がある。
1944年後半には,戦局挽回を図るため,陸軍航空技術研究所長正木博少将は,特攻によって,一機で一艦を屠るべきである主張した。「跳 飛爆撃」のような艦艇撃沈にふさわしい戦法にかわって,旺盛な突撃精神を発揮しての特攻(体当たり自爆)作戦が採用された。1944年初頭から,陸軍大 臣,参謀総長も兼ねていたむ総理大臣東条英機陸軍大将は,「物には限りがあるが精神力は無限である」「敵に打ち勝つには精神力が重要だ」としきりに国民と 軍に訴えていた。突撃精神が優先される状況では,命を懸けた特攻に,軍事的,科学的な疑問を呈することはできなくなった。保阪正康(2005)『「特攻」 と日本人』では,特攻を容認する下地を準備した内閣総理大臣東條英機陸軍大将の役割を指摘したが,卓見である。特攻という多数の人命を犠牲にする大作戦を 実施するには,政府・軍の最高幹部が承諾していることが必要であり,一部の将校の発意で実施できる作戦ではない。にもかかわらず,現地将兵のやむにやまれ ない心情から,自発的に特攻が実施されたという「特攻自然発生説」が元幹部を中心に流布されてきた。 体当たり自爆攻撃は,航空機が軽いジュラルミンで作られており,突入速度も600kmと爆弾よりも遅く打撃 力は小さい。高速で突入する特攻機を操って,目標に肉弾突撃する熟練搭乗員も少なく,訓練用の燃料が不足してた。岩本大尉のような陸軍初の特攻隊指揮官と なった有能な士官も,技術的理由から特攻の成果はあまり上がらないと考えていた。 第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将自身が「統率の外道」にもかかわらず特攻を命じた。軍上層部の強い意向を承諾し、命令に従ったからである。(第一航空艦隊司令に就任したくないといっても命令を断るのは不可能である。) 特攻隊員の命を犠牲にして任務を遂行することは,人命軽視な上に,勇気ある搭乗員の命を1回限りで使い捨てる、犠牲が多く効果の少ない作戦である。しかし,当時の状況では,それを公言できる人物はほとんどいなかった。言った人物もあったが黙殺された。
日本陸軍は,当初,川崎キ48九九式双発軽爆撃機と三菱キ67「飛龍」重爆撃機を体当たり自爆攻撃機に改造して特攻を準備した。九九双軽は,胴体下方爆弾 倉に通常は100kg爆弾4発,最大で500kg1発を搭載する。それを特攻では,500kg2発装備できるように改造した。
軽 量化した骨組みの日本軍機は,急降下しても時速600kmのスピードしか出せない。また,航空機の機体は,剛体(鉄の塊)ではないから,爆弾よりもはるか にもろい。したがって,特攻機の衝撃は,投下された爆弾よりも遥かに小さい。唯一の利点は,搭載燃料が引火しやすいことだけである。 軍 事作戦の上からは,優秀な兵士は何回も出撃させるが,休養をとらせる。これが,効果的な戦闘を継続する要件なためである。肉薄し爆弾を投下するなら,命中 率がよくなる。特攻に志願できる勇気があれば,「敵兵の白目が見えるまで」肉薄攻撃を行うほうが,士気も戦果もあがったであろう。(夜戦「芙蓉部隊」のように)
4.1944年10月-11月
フィリピン戦での日本陸海軍航空隊による特攻作戦は,軍上層部が組織的,計画的に行った「作戦」である。しかし、特攻は,第一線の将兵が戦局挽回のため
に、犠牲的精神の発露として、自ら発意、志願して実施したという「特攻自然発生説」が唱えられた。「特攻自然発生説」を信じ、特攻隊員の自己責任を強調し
たの理由は、軍上層部の特攻作戦の責任回避、特攻隊を送り出し自らは生き残ってしまった悔恨のため、と考えられる。 1945年6月19・20日,最後の空母決戦であるマリアナ沖海戦で日本軍は艦載機350機以上を失い,熟練搭乗員,大型空母も壊滅。正攻法による攻撃で は勝ち目がないことを悟った日本海軍は,特攻「作戦」の採用を決定。1944年7月、戦備考査部会議で「特殊兵器緊急整備計画」が策定され海軍水雷学校長 大森中将の指揮する特殊兵器整備促進班を設置。
1944年10月の台湾沖航空戦の戦果誤認の訂正電報を大本営で受けた瀬島龍三参謀は,過大な戦果(空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻などを撃沈)が既に 大元帥昭和天皇の上聞に達していたという理由で,この修正電報を握りつぶした。陸軍は,この誤った過大戦果報告をもとに,作戦方針を,ルソン島持久戦から レイテ島決戦に急遽変更してしまう。(→「山下奉文大将終焉の地 慰霊碑修復計画」に異議あり引用)
日米開戦時に陸軍省人事局長だった富永恭次中将は,瀬島龍三参謀の庇護者である。フィリピン方面の陸軍航空隊(特攻隊を含む)の総元締めである第四航空軍司令官でもある。
朝鮮半島の元山空は,
零式練習戦闘機(練戦)を配備していた。訓練に使われたのは、古いものばかりだったようだが,教員・教官も,練習生も「飛べれば結構」と、新旧はあまり問
題にしていない。しかし,特攻機としても練習機・搭乗員を送り出している。青木司令は,司令会議で博多に出張しているが,そのときにも練戦を使用した。 ウォナー夫妻(1982)『神風 (下)』によれば,海軍の宇垣纒中将が特攻出撃,戦死した報が伝わると,陸軍にも死ぬ機会をあたえてほしいと要望する隊員が出た。第六航空軍高級参謀鈴木 京大佐は,重爆1機を用意した。そして,菅原司令官に「一機用意いたしました。鈴木もおともします」と言った。この申し出に、菅原大将は「宇垣が死ねこと にきめたとしても、自分にとってはこれからの後始末が大事だと答えて、『死ぬばかりが責任を果たすことにならない。それよりは後の始末をするほうがよい』 と語った」 菅原司令官は,戦後,特攻の慰霊碑事業を指導した。1952年特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会をやはり戦後も生き残った及川古志郎海軍大臣,寺岡謹平司令官 たちと立ち上げた。特攻作戦の推進者たちは、戦後になって生き残り、特攻命令を下した部下たちの慰霊に努めた。これは、責任を墓場認める勇気ある行為かも しれない。 軍上層部は,明確に「自爆体当たり攻撃をせよ」との命令を下したわけではなく,米軍の言う「自殺攻撃」のかわりに「特別攻撃=特攻」という言葉を作り出し た。「特別攻撃」の語は,1941年12月8日の真珠湾奇襲攻撃に際して,特殊潜航艇による湾内突入雷撃計画にも使用されていた。明確な自爆体当たり命令 をださない理由は「自発的な志願者による犠牲的精神の発露として,特攻が行われる」との俗説を流布させるためかもしれない。(戦後の警察予備隊では、戦車 を特車、砲兵を特火といった。) 犠牲的精神を要求した上官の責任を一切認めようとしない態度は,特攻隊員に対する欺瞞にも思える。事実上の命令で特攻隊員に任命され,特攻隊が編成された。若者に犠牲的精神を求め,その命を要求した責任は,命令者たる上官がとらなくてはならない。
5.日本陸海軍航空隊による特攻作戦は,大きな被害を連合軍艦艇に与えた。しかし、その犠牲となっ
た特攻隊員、特攻機、その支援部隊の損害と比較すると、作戦に伴う犠牲が大きすぎた。航空機による体当たり自爆という攻撃方法は、敵撃滅にはあまり効果的
な方法ではなかった。にもかかわらず、全軍特攻化を日本軍の国防方針としたのは、精神主義、愛国心しか頼るものが無かったからであろう。 ⇒◆1944年10月フィリピン戦における特攻作戦「二つの神話:特攻隊生みの親大西瀧治郎中将・特攻第一号関行男大尉」
沖縄戦では、戦艦、空母のような大型艦船よりも、駆逐艦、掃海艇、揚陸艦など小艦艇への特攻が多い。これは、沖縄に来航した米軍艦隊が、空母の周囲を、小艦艇で幾重にも護衛した輪陣形を形成し、周囲の小艦艇をまず発見した特攻機が、それを攻撃したためである。 特攻による米国商船の被害一覧からみても,フィリピン戦と沖縄戦の特攻で撃沈できた米国の商船は,6隻である。小艦艇ですらも、損傷はしたが、撃沈することは困難であった。鋼鉄の船体に比べれば寄木細工のように軽く華奢なジュラルミンの航空機は、体当たりしても、必ずしも大打撃力は大きくない。 航空機は3トン以上あるが、剛体ではなく、突入速度も時速500-600km程度で、爆弾の投下速度の四分の一にも達していない。自由落下する剛体の爆弾は高速で,急降下する飛行機に縛り付けられた爆弾よりも,衝撃力は大きくなる。
日本軍は「一機よく一艦を屠る」といい特攻作戦を正当化した。しかし,軽量のジュラルミンの航空機は,剛体ではなく,体当たりしても,頑丈な鋼鉄の 船体には被害を与えることは困難である。特攻作戦は、厳密な科学的な「特攻機の打撃力」を計算した結果採用されたとはいえず、無謀な突撃重視の精神主義に 彩られたものであった。 ⇒◆沖縄地上戦「住民を巻き込んだ戦闘」
⇒◆沖縄戦における特攻作戦「菊水作戦・航空総攻撃」 6.戦争終盤,沖縄戦における特攻作戦では,志願者を募るという形式をふむこともなく,部隊が編成された場合も多かった。戦局が悪化する中,多数の搭乗員が特攻隊員に選ばれている。若者は,特攻を引き受けるしかないと諦観したようだ。
古小路裕によると,最新鋭の急降下爆撃機「銀河」の特攻出撃は次のように命じられた。 沖縄戦末期になると,低速の旧式機,練習機,水上機,複葉機も特攻作戦に投入された。特攻隊員は,自分の棺となる特攻機を選べなかったから,このような低速の旧式中古機を割り当てられて,落胆し,憤慨したこともあった。
白菊特攻隊 特攻隊編成によると,1945年3月下旬、九〇三航空隊から大井航空隊に転属したパイロットたちが,「白菊」特攻隊に編成される様子が描かれている。 ある日のこと、「飛行隊の搭乗員は、総員直ちに映写講堂に集合せよ!」と伝達された。----飛行隊関係者総員が集合したところで、大井航空隊司令奈良大佐が、参謀××中佐を伴って壇上に上がった。「今から聞く話は、軍の重大な機密である。だから、決して口外してはならない、また、お互い隊員の間でも話題にしてはいけない!」と、念を押した。 ---参謀の話を要約すれば「---フィリピン方面での戦況は、既に末期的な状況となっている。----この難局に際して残された手段は、諸君ら搭乗員が一機で一艦を沈める『体当たり攻撃』以外に方法はない。よって、第十航空艦隊は全保有機をもって『神風特別攻撃隊』を編成し『体当たり攻撃』を実施する」。 特攻は一部の志願者による特別な行為であって他人事としか考えていなかった。だから、自分自身が「体当たり攻撃」を実施する立場にたたされるとは夢想もしていなかった---。ところが,航空艦隊参謀の説明によれば、全保有機で「特別攻撃隊」を編成するという。これは志願者を募るのではなく、飛行隊をそのまま「特攻隊」に編成替えして「体当たり攻撃」を実施するということである。それなら、もう逃げも隠れもできない瀬戸際にたたされたことになる。(上記引用)
航空艦隊参謀から「諸君が一機で一艦を沈める体当たり攻撃以外に方法がない」と言われると「よーし、やるぞー」という気持ちになる。しかしその反面、「ま だ死にたくない、他にも何らかの方法があるのではないのか……」との思いが交差する。このように、精神的な動揺をどうすることもできなかった。----わ れわれ搭乗員の思惑とは関係なく、「神風特別攻撃隊」の編成は計画的に進められていたのである。---この時期、学生や練習生に対する教務飛行は既に中止され、練習航空隊は編制改正により、実施部隊に生まれ変わっていた--。
練習機として、教務飛行に使われていた「白菊」はスピードも最高で120ノットと遅いうえ、燃料も満タンで480リットルしか積めない、約600マイルの航続距離しかない。そのため、「特攻機」としての改造が行われた。 昼夜にわたる猛訓練を実施して錬度の向上を図り、夜間の出撃が可能となった時点で、鈴鹿航空隊及び大井航空隊は第三航空艦隊に、高知航空隊と徳島航空隊 は、第五航空艦隊にそれぞれ配属された。5月24日以降、6月25日までに、130数機の「白菊」が、沖縄方面に「体当たり攻撃」を敢行した。その内、 56機が突入確実と認められ、連合艦隊告示によって、その功績が全軍に布告された。--200数十名が「白菊」と運命を共にした。(→白菊特攻隊 特攻隊編成引用) ◆特攻作戦の崩壊 ◇ The Kamikaze :全軍特攻化と一億総特攻 (1)本文轉自 http://www.geocities.jp/torikai007/1945/tokkou.html (YP報告國內無法打開) 旨在為V6諸君以及其他對此歷史事件感興趣的友人提供相關的一些參考資料 ◆特攻作戦の崩壊 ◇ The Kamikaze :全軍特攻化と一億総特攻 ![]() ![]() 写真:(左)空母「レキシントン」の戦闘機F6Fの搭乗員;1944年11-12月の「ヘルキャット」戦闘機のパイロットたち。これから1年後には多数の特攻機を撃墜することになる。 写真(右):九九式襲撃機で特攻出撃する陸軍搭乗員たち; 固定脚(離着陸用車輪が引き込まない)の低速430km/hの機体に、爆弾250kgを搭載して体当たり自爆する。パイロット(操縦手)のほか,後席には 偵察員も搭乗する。日本陸軍では、パイロットや偵察員などの飛行機乗りを「空中勤務者」と、海軍では「搭乗員」と呼んだ。1945年内地での撮影と思われ る。 写真(右):空母「ベニントン」USS Bennington(CV-20)のF6F-5 "Hellcat"戦闘機;1945年5月撮影。 空母「ベニントン」は2万7,100トンのエセックスEssex級空母10
隻中の1隻で、15万馬力、33ノット、搭載機90機(38×F6F戦闘機、4×F6F夜戦, 27×SB2C急降下爆撃機,
18×TBM雷撃機)。正規空母「ベニントン」は1945年2月硫黄島攻略戦、3-4月に沖縄攻略戦に参加。
米軍では基礎飛行を700-1000時間はこなしたが、日本軍では総飛行時間100-200時間で、実戦に配備された速成パイロットが多かった。
【アジア太平洋戦争インデックス】戦史一覧 自爆テロと特攻:特攻隊員は9.11同時テロリストと同じか?/ 特攻兵器(1):人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」特攻艇「震洋」「マルレ」/特攻兵器(2):特殊潜航艇「海龍」・特殊攻撃機キ115「剣」 USS GUEST DD472 OKINAWA CAMPAIGN /UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY:SUMMARY REPORT/U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945 1.日本軍による航空特攻作戦は,1944年10月20日のフィリピン レイテ戦で採用され,第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将の指揮下で、10月25日に戦死した神風特攻隊「敷島隊」関行男海軍大尉が「特攻第一号」であると いう「神話」(というより俗説)が流布されてきた。連合艦隊も、関行男大尉の特攻第一号を公認、全軍告示した。しかし、関大尉戦死の4日前、10月21 日、神風特攻隊「大和隊」久納好孚中尉(法政大学出身)が、特攻出撃、戦死した。海軍上層部は、戦果が無かった(と思われた)久納中尉を、特攻第一号とは 認めず、黙殺した。 1944年6月のマリアナ沖海戦(フィリピン海の戦い)で は,日本海軍は正規空母3隻,軽空母6隻を中核とする第一機動部隊と基地航空隊を準備し,サイパン島に侵攻した米任務部隊を迎撃。しかし,戦果をあげるこ となく,正規空母2隻,軽空母1隻が撃沈,艦載機350機を喪失。以後,日本軍が正攻法で米空母任務部隊を撃滅することは,不可能と判断された。サイパン島「玉砕」は、東條英機首相を辞任させた。こうした危機的状況で,特攻作戦が採用された。
特攻作戦の命令系統,戦闘序列の問題:特攻作戦を軍上層部が計画し、実行すれば、指揮官の権限を明確にし、訓練も充実できる。しかし、特攻という必ず死ぬ
作戦を命じた指揮官は、その責任を取る必要に迫られる。「勝利か、死か」、作戦が失敗すれば、部下を無駄死にさせた責任を負わなくてはならない。赤子を死
地に送り出したことで、大元帥の代わりに、将官が切腹してお詫びしなければならない。 指揮官が特攻作戦の責任を回避するには、部下の将兵が自ら発意して、犠牲的精神を発揮してもらうのがよい。第一線の将兵が、国土・国体を護持し、家族を守 るために、自発的に体当たり自爆を志願してくれるのが望ましい。この場合、上官が特攻を命令する必要はなく,部下の熱意に「頼む」と承諾を与えるだけであ る。「特攻に部下を送り出した」(非情な)司令官にならない細工ともいえる。 特攻作戦を企図した軍上層部は、第一線将兵が、自発的に志願し、体当たり特攻したとの建前をとった。殉国志士が,やむにやまれない心情から特攻した、だから司令官は特攻を命じたわけではなく、特攻の責任もないというのであろうか。 海軍の初の航空特攻「神風特別攻撃隊」は,『愛国百人一首』から,敷島隊,山桜隊など4隊を命名・組織し,海軍兵学校出身の艦上爆撃機パイロット関行男 (23才)大尉を指揮官に任命。特攻第一号は,1944年10月25日,フィリピンで護衛空母「セントロー」撃沈した関行男大尉であると公認,全軍布告さ れた。
10月21日の特攻「敷島隊」初出撃では,突入せず,引き返したが,同1日、「大和隊」久納好孚中尉(学徒出身)は,未帰還になった。しかし、法政大学出 身の久納中尉は,特攻第一号とは認められず黙殺された。(戦果が無いので当然という者もいるが)戦果不明の特攻を特攻第一号としては,軍上層部の面子が立 たないからである。 関行男大尉が1944年10月25日特攻戦死すると,10月28日,連合艦隊司令長官豊田副武大将は、関行男大尉を特攻第一号と公認,ほか敷島隊5名とと もに全軍布告した。特攻に出撃した「大和隊」久納好孚中尉は,現在でも黙殺されたままである。軍上層部の生き残りたちは、戦後になっても、戦果をあげない 特攻隊員など価値がないといわんばかりの扱いをしてきた。名誉回復のための証言もしていない。
「特攻は第一線の将兵の犠牲的精神の発露として、自らの発意で行われた」との特攻自然
発生説を唱える指揮官や識者は,愛国者のように見える。しかし、彼らは、戦果をあげなかった法政大学出身の特攻隊・久納好孚中尉を特攻第一号とはしなかっ
た、これは、戦果優先,海軍兵学校優先という教条的な軍事思考が蔓延していたためであり、愛国心とは相容れない。
First
Kamikaze? Attack on HMAS Australia - October 21 st, 1944 or Crash at
Biak - May 27 th, 1944;By Richard L. Dunn © 2002, 2005の記述: 日本海軍にとって、久納好孚中尉機の戦果は不明瞭なままで、戦果不明、行方不明の特攻隊は、全軍布告するには及ばない。攻撃に失敗した特攻隊員を特 攻第一号に認定するわけにはいかない。特攻に出撃して帰らない行方不明=戦死であるにもかかわらず、戦果不明の久納好孚中尉ではなく,空母撃沈とされた関 行男大尉を大々的に公表し、連合艦隊による全軍布告という最高の栄誉を与えた。軍は、特攻に志願する犠牲的精神を高く評価したわけでは決してない。戦果優 先であり、命や精神の評価は二の次であった。 日本海軍は、久納中尉機が戦果をあげていたとしても,特攻第一号とは認定しなかったか もしれない。予備学生(法政大学)出身の速成将兵が特攻第一号では,職業軍人のエリートの海軍兵学校の将兵は何をしていたのかと,批判されかねない。やは り,海軍の中心的存在の海軍兵学校(海兵)出身者が「特攻のさきがけ」としてふさわしい,と軍上層部は判断したであろう。海軍兵学校出身の若手士官の純心 とは,関係なく,「海兵」が尊重されたということかもしれない。
敷島隊指揮官(海軍兵学校出身)関行男大尉が特攻第一号となることは,既定の方針だった。エリートの海軍兵 学校出身の指揮官が自発的に特攻隊を志願し,自ら部下を率いて体当たり,大戦果をあげる。下級将校・下士・兵も軍神関大尉に続け。しかし、終戦までの特攻 隊員の中に、兵学校出身者は数十名と全体の10%未満である。特攻隊員の多くは学徒兵や少年兵など甲・乙の予科練出身者だった。
敷島隊「五軍神」の全軍布告は,真珠湾への特殊潜航艇による特別攻撃を実施した「九軍神」と全く同じ扱いである。
2.1944年10月20日,フィリピン
レイテ戦で第一航空艦隊の「神風特攻」が実施されたが,この作戦の採用を巡っては,第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将が「特攻の生みの親」であるとの神話
(俗説)が流布されている。しかし、神風特攻隊初出撃の3ヶ月前、1944年7月21日,大本営海軍部(軍令部)は「大海指第431号」を発し,特殊奇襲攻撃として各種の特攻兵器を開発し,特攻作戦を展開する計画を立てていた。また,「大海機密第261917番電」は,
大西中将のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,特攻隊戦果を確認した10月26日発信で,特攻の発表は,戦意高揚のため,攻撃隊名称も併せて
発表すべきことを指示していた。これらは,海軍上層部が,特攻を組織的,計画的に進めていた証拠である。大西瀧治郎中将は、神風特攻隊の上級司令官である
が、特攻作戦を計画・準備した「特攻隊生みの親」ではない。しかし、大西瀧治郎中将は「特攻隊生みの親」と祭り上げられ,事実上,特攻を行った軍人の責任
を全て背負うことになった。
大西瀧治郎 - Wikipediaによれば、次の記述がある。 神風特攻隊を指揮したことで「特攻の父」「特攻生みの親」とされる。---しかし、1944年6月のマリアナ沖海戦での連合艦隊の一方的な敗北以降、 ---従来の航空攻撃では連合軍艦船に対してほとんど打撃を与えられなくなった状況で特攻戦法の導入を主唱したのは、ほかならぬ当時第1航空艦隊司令長官 であった大西であった。(引用終わり)
特別攻撃隊 - Wikipedia「カミカゼの生みの親・大西瀧治郎」の記述
海軍兵学校人物伝10 豪放磊落 大西瀧治郎によれば、「カミカゼの生みの親・大西瀧治郎」として、次の記述がある。
大西瀧治郎中将(1891年6月2日 - 1945年8月16日)は,1937年に中華民国の首都南京などへの「渡洋爆撃」を実施した航空専門家だった。しかし、内地から第一線のフィリピンに来たばかりであり,それ以前は部隊を率いていない。大西中将は,神風特攻隊を発案したわけでも,特攻隊を時間をかけて編成したわけでもない。 フィリピンの特攻作戦開始より3ヶ月前,1944年7月21日,人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」を整備することが海軍上層部で決定している。特 攻兵器の開発が,「神風特攻隊」出撃以前から進展していたのであれば、1944年10月下旬になって,急遽,第一航空艦隊司令官に就任した大西中将が、航 空特攻を発案したとは考えられない。
海軍の軍令部は,陸軍の参謀本部に相当する軍上層部で,国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。軍令部も参謀本部も天皇の持つ統帥大権を補佐する官衙である。 戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。陸軍参謀総長、海軍軍令 部総長は,天皇によって中将か大将から任命(親補)される勅任官で,次長は総長を補佐する。ともに,御前会議の構成員となる。 日本海軍の統帥部は,軍令部で,作戦について天皇を輔弼する。軍令部総長は、天皇の命令を各部隊に伝達する任務を帯びているが,実際には命令は軍令部総長(および軍令部)が立案する。 軍隊の特徴として、部隊が編成され,隊名・隊長が任命され,正規の作戦が採用される。志願者の集まる自然発生的な部隊,統帥が及ばない部隊 には、指揮官任命,訓練,昇進など人事に関する統率権もないのであって、実際にはこんな「部隊」は存在しない。したがって、自然現地部隊が自ら発意して特 攻隊を編成することはありえない。兵器も燃料も命令系統も全て部隊として統率されているからである。 特攻作戦を命じる指令は、軍上層部から
発せられたが、「体当たり自爆せよ、自殺攻撃をかけよ」といった直截的表現はない。しかし、「奇襲」の名の下に、特攻作戦を展開しようとする意図が読み取
れる。1944年7月21日、神風特別攻撃隊敷島隊、大和隊などが編成される3ヶ月前に、日本海軍の軍令部は、大海指第431号を発して、特攻作戦の準備を正式に開始していた。
1944年6月19-20日,マリアナ沖海戦大敗北、7-8月マリアナ諸島陥落と、マリアナ諸島の航空基地からB-29戦略爆撃機による日本本土空襲が危惧された。日本軍は,至急、米空母任務部隊に打撃を与え、敵が日本本土に接近するのを食い止めなくてはならない。
1944年7月21日大海指第431号 1945年10月25日,軍令部総長及川古志郎大将が,本日,関行男大尉らがフィリピン戦で特攻し,護衛空母「セントロー」撃沈など大戦果
を上奏したとき,大元帥昭和天皇は「そのようにまでせねばならなかったが。しかしよくやった。」とお言葉を発した。保阪正康(2005)『「特攻」と日本
人』pp.51-52の引用する侍従武官吉橋の日記によれば,体当たり機のことについて上奏を受けた大元帥昭和天皇は,最敬礼され,戦果を賞賛されたとい
う。 特攻を採用した軍司令官たちは,自害するなり何なり勝手になすべく,責任をとることができたが、少数の例外を除いて、自決できず、戦後も生き残った。 1944年10月15日、台湾沖航空戦の際に、有馬正文少将は、一式陸上攻撃機に自ら搭乗して、陣頭指揮をとって戦死。有馬少将の場合,特攻ではないであ ろうが,特攻作戦が発動されていることを知って,自ら決死攻撃の陣頭指揮した。軍司令官の模範を示したのである。ただし,それに続いた将官は,なかった。
1945年10月20日以降,連日のように神風特攻隊に出撃を命じた第一航空艦隊司令官大西瀧次郎中将は,「特攻は外道の統率」であると認識し,出陣に当たって次の挨拶をした。
「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救いうるものは、重臣でも大臣でも軍令部総長でもない。むろん自分のような長官でもない。それは諸氏の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。 大西中将は,大元帥承認済み(事後承認?)の作戦として「特攻作戦」を実施することを公言している。特攻作戦の責任をとって,1945年8月16日,天皇の終戦宣言ラジオ放送の翌日,割腹自決(55歳)。遺書は次のようだった。
「特攻隊の英霊にもうす。善く戦ひたり深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。
宇垣纒中将も,部下を道連れにする私兵特攻という罪を重ねて,艦爆「彗星」を道連れに,終戦の玉音放送直後、沖縄に自爆。 将官の特攻死を認めれば、模範を示すべき多数の将官も特攻出撃することが望ましい。日本海軍は、必見攻撃を重視し、陸軍は,白兵戦、肉弾戦をする突撃主義を信条としていた。逆説的にいえば、有馬正文中将(死後一階級昇進)のように、特攻のさきがけとして陣頭指揮をして機上戦死した将官が、軍上層部の鑑(かがみ),特攻のさきがけとして公認されなかったのは当然であろう。自ら特攻死できる将官はまずいない。(→保阪正康(2005)『「特攻」と日本人』参照) 中部太平洋艦隊第二六航空戦隊司令官の有馬正文海軍少将(49歳)は,死後に一階級昇進して中将になった。率先垂範、一式陸攻に搭乗し、米第三八任務部隊 を攻撃したが,これは特攻とは認められず,一階級昇進させただけで,全軍布告もされていない。そもそも一式陸上攻撃機によって,特攻がなされたのは,人間 爆弾「桜花」の運搬用としてであり,それ以外は,特攻に使用されていない。航空兵器に疎い参謀はいないから,鈍重,低速で燃えやすい「ワンショット・ライ ター」を特攻させることは,最後までなかったのである。突入,散華した有馬少将は,決して「特攻」とは公認されなかった。遺書で「自分、自ら必殺の特攻と なってその範を示す。願わくば心ある後輩、我に続き、この危急存亡にあたり護国の大任を果たされんことを望む」といった。しかし,後続する将官はなかっ た。
軍令部からフィリピンの第一航空艦隊長官(寺岡謹平中将から10月20日に大西中将が引継ぎ)宛(→「大海機密第261917番電」は,1944 年10月13日起案,10月26日発信である。電文は「神風隊攻撃の発表は全軍の士気昂揚並に国民戦意の振作に至大の関係ある処、各隊攻撃実施の都度純忠 の至誠に報い攻撃隊名<敷島隊、朝日隊等>をも併せ適当の時機に発表のことに取計い度処、貴意至急承知致度」となっていて,現地ではなく,軍 中央上層部が神風特別攻撃隊を編成、部隊名称を策定したのである。 電信「大海機密第261917番電」は軍令部作戦課(第一課)の航空担当源田実中佐(海兵52期)が10月13日起案し、上司の承認を得て発信している。(→戦史のウソ引用) 「大海機密第261917番電」で指示した神風特別攻撃隊の部隊名称は,本居宣長『鈴屋集』の「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花」から採ったのではない。源田實が、和歌を諳んじていたのではない。神風特攻隊「敷島」「大和」などの部隊命名は、1942年11月20日発表『愛国百人一首』の孫引きである。『愛国百人一首』選定顧問は、内閣情報局第五部長、大政翼賛会実践局長、文部省社会教育局長、陸海軍省報道部長(平出英夫など)、日本放送協会業務局長、東京帝国大学教授(平泉澄など)、日本文学報国会会長徳富蘇峰、日本文学報国会理事など。 『愛国百人一首』に、本居宣長『鈴屋集』「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花」が選ばれている。神風特攻隊の部隊名称は、この歌の敷島,大和、朝日、山桜が使用された。源田實中佐は、「愛国百人一首」をめくって,特攻隊の部隊名称を決め、電報で指定した。つまり,軍令部が部隊名を事前に指定、戦果公表の仕方まで決めたのであって,神風特攻隊は,現地部隊から自然発生したのではない。(⇒文化人の戦争・特攻参照)
軍令部からフィリピンの第一航空艦隊長官(寺岡謹平中将から10月20日に大西中将が引継ぎ)宛(→「大海機密第261917番電」は,1944 年10月13日起案,10月26日発信である。電文は「神風隊攻撃の発表は全軍の士気昂揚並に国民戦意の振作に至大の関係ある処、各隊攻撃実施の都度純忠 の至誠に報い攻撃隊名<敷島隊、朝日隊等>をも併せ適当の時機に発表のことに取計い度処、貴意至急承知致度」となっていて,現地ではなく,軍 中央上層部で神風特別攻撃隊の編成や部隊名称が策定された。 神風特攻隊の出撃は,1944年10月20日にルソン島マバラカット基地の予定が,悪天候のため,出撃しなかった。特攻出撃は10月21日からで連日の ように飛び立った。しかし敵艦隊を発見できずに引き返したり,他の飛行場に不時着したり,行方不明になっていたのである。日本側の資料では,特攻隊は10 月25日に初戦果をあげた。しかし,10月21日に未帰還の久納好孚中尉,24日に未帰還の佐藤馨上飛曹は,戦果不明のため黙殺された。 特攻隊を犬死とするのはけしからぬ,と主張するなら,戦果にかかわらず,特攻隊を処遇すべきである。「神風特攻隊関行男大尉が特攻第一 号」「特攻は自然発生的に行われた」「特攻隊の生みの親は大西中将」という俗説は,海軍兵学校出身のエリート士官重視,特攻隊を編成した軍上層部の責任逃 れ,戦果重視の驕りのようにみえる。(靖国神社では,海軍兵学校出の関行男中佐(死後二階級特進)を特攻第一号とし,4日前に特攻戦死した学徒出身久納中 尉を特攻第ゼロ号として小さく紹介。)
体当たり特攻隊は,日本陸軍航空隊で海軍に先立って編成していたことは,あまり知られていない。陸軍は,九九式双発軽爆撃機キ-48や百式重爆撃機キ -49「呑龍」,四式重爆撃機キ67「飛龍」を専用特攻機として改造。これは、起爆信管の追加,大型爆弾を搭載できるような改装などで、陸軍の専門的な部 隊が研究,改造した。決して、部隊が独自に特攻したり、個人が自発的に特攻したのではない。軍隊では、兵器を勝手に改装し、勝手に使用することは軍規違反 であり、許されない。
3.1944年10月20日 レイテ戦の日本海軍航空隊による神風特攻隊大戦果、大喧伝の陰に隠れているが、日本陸軍航空隊も特別攻撃隊を編成している。陸軍初の特攻隊は,内地(日本本土)の茨城県鉾田陸軍飛行学校で
編成されており、陸軍も特攻作戦を組織的,計画的に進めていた。1944年10月、捷一号作戦発動に伴い,岩本益臣陸軍大尉以下24名は、フィリピンの第
四航空軍(軍司令官富永中将)の陸軍特攻隊「万朶(ばんだ)隊」として出動した。陸軍の特攻は,1944年11月7日のフィリピン戦であり,海軍の特攻に
2週間遅れたうえに,空母撃沈のような華々しい戦果があげられなかった。そこで,日本軍初の特攻隊「万朶隊」は黙殺されてしまう。(戦果がないから当然だという軍の判断である。) |
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